LOGIN高瀬メディカルへの部品供給を停止してから、数日が過ぎていた。黒崎グループ本社の執務室で、怜司は机の上に置かれた報告書をもう一度開いた。高瀬が作成したとされる検証記録。耐久試験の数値に不自然な食い違いがあり、一部には実施された形跡の確認できない工程まで記載されている。人の身体を支える医療機器だ。疑いがある以上、確認が終わるまで開発を進めるわけにはいかない。そう判断したのは怜司自身だった。部品供給と追加研究費を一時的に止める。ただし、高瀬を不正企業と決めつけるな。事実確認を急げ。数日前、怜司はそう命じて決裁した。その判断そのものを、今も間違いだったとは思っていない。問題は、その先だった。「まだ調査結果が出ないのか」向かいに立つ雅人へ尋ねると、彼はわずかに表情を曇らせた。「確認に時間がかかっております」「何にだ」「元になった記録と、関連部署のデータ照合です。高瀬側にも確認を求めていますが――」怜司は顔を上げた。「高瀬から返答は?」一瞬。ほんのわずかだったが、雅人の言葉が途切れた。「担当役員のところには、いくつか問い合わせが来ているようです」「問い合わせ?」「停止理由の詳細を示してほしい、と」怜司の眉が寄った。「それだけか」「と申しますと?」「高瀬会長が、何も言ってこないのは不自然だ」高瀬宗一郎を、怜司は長く知っている。自社に不正の疑いをかけられ、部品も資金も止められて、それで担当者同士のやり取りだけで済ませる男ではない。まして、身に覚えがないのならなおさらだ。「直接、俺と話したいとは言っていないのか」雅人は慎重に答えた。「先方も社内確認を進めている段階かと。情報が錯綜したまま社長同士で話しても、かえって混乱を招きます」
一ノ瀬雅人《いちのせ・まさと》は、黒崎グループ本社の役員室で報告書を閉じた。高瀬メディカルへの部品供給は止まっている。追加研究支援も保留された。安全性に疑義があるという報告を受け、最終的に停止を承認したのは怜司自身だ。患者の身体に直接関わる製品である以上、確認が取れるまでは動かさない。怜司なら、そう判断する。私情を挟まず、安全を優先する。だからこそ、雅人には利用しやすかった。「高瀬会長からの連絡は?」向かいに立つ管理担当者へ尋ねる。役員間の連絡経路を扱う男で、以前から雅人の頼みを断らない人間だった。「今日も社長との直接面談を求めています。問題とされた資料について、高瀬側から説明したいと」「社長には?」「まだ上げておりません」雅人は表情を変えなかった。「それでいい。担当部門で確認中だと返しておけ」「ですが、社長からは高瀬側の反論もすべて上げるようにと――」「上げないとは言っていない」雅人は静かに遮った。「整理してから上げる。それだけだ」一日遅れれば、判断も一日遅れる。数日あれば、高瀬はさらに苦しくなる。評価試験は止まり、代替部品を探しても、黒崎製のセンサーと小型モーターを前提にした制御系を簡単には置き換えられない。「高瀬から届いた資料も、いったんこちらへ回せ」「承知しました」男が退出すると、雅人は窓の外へ目を向けた。一ノ瀬エレクトロニクスも、かつては一ノ瀬家の会社だった。センサー。制御基板。精密モーター。会社も、社員も、技術も残った。だが、経営権だけは黒崎へ移った。今の雅人は黒崎本社の執行役員兼電子部品事業部長として、一ノ瀬エレクトロニクスを含む子会社を統括している。出世したと言う者もいる。雅人には、そうは思えなかった。
高瀬メディカルへの部品供給と、追加研究支援の一時停止を決裁してから、まだ一日も経っていなかった。黒崎怜司は執務机の上に残された報告書を、もう一度開いた。安全性確認資料の一部に不整合がある。検証条件と実測値が一致せず、正式な検査が行われたのか疑義が残る――。患者が実際に装着する義足へつながる開発だ。安全性に疑いがある状態で供給を続けることはできない。だから、止めた。最終決裁欄へ署名したのは怜司自身だった。その責任まで、報告を上げてきた人間へ押しつけるつもりはない。ただ、資料を読み返すほど、一つの違和感が残った。書かれているのは、あくまで「疑義」だ。それなのに報告全体は、読む者を自然に「高瀬が何かを隠した」という結論へ導くように作られている。怜司は内線へ手を伸ばした。「一ノ瀬を呼べ」ほどなくして、一ノ瀬雅人《いちのせ・まさと》が執務室へ入ってきた。「お呼びでしょうか」「昨日の停止決裁について確認する」怜司は報告書を机の中央へ置いた。「この資料は誰が取りまとめた」「電子部品事業部と品質保証部です。共同開発側から上がった資料も照合しています」「元データは?」雅人が、わずかに間を置く。「現在、確認を進めています」怜司の眉が動いた。「まだ確認できていないのか」「安全性に関わる問題です。完全な裏付けを待ってからでは遅いと判断しました」「停止したことを責めているんじゃない」怜司は低く言った。「決裁したのは俺だ。責任も俺が負う」雅人は黙った。「だが、停止することと、不正を断定することは別だ」「現状では、高瀬側の記録に問題がある可能性は高いかと」「可能性は事実じゃない」怜司は報告書の一頁を指で押さえた。「この数値が正式な検査結果なら、原データがあるはずだ。検査機
退院して数日が過ぎても、沙耶は自室で安静を命じられていた。出血は治まり、腹部の痛みもほとんどない。それでも医師からは、少しでも無理をすれば再び出血する可能性があると念を押されている。ベッド脇の机には、相川が運んできた高瀬メディカルの資料が積まれていた。「仕事をするなとは言われていません」沙耶がそう言うと、様子を見に来た宗一郎が呆れたように眉を上げた。「安静という言葉の意味を調べ直せ」「横になったまま読んでいます」「屁理屈だけは元気だな」そう言いながらも、宗一郎は資料を取り上げなかった。会社から完全に切り離したところで、沙耶が余計に気を揉むと分かっているのだろう。ただし一時間ごとに休むこと。相川から直接電話を受けないこと。判断が必要な案件はすべて宗一郎を通すこと。いくつもの条件をつけられたうえでの、限定的な仕事だった。午後、高瀬メディカルの開発責任者である佐伯が高瀬邸を訪れた。五十代半ばの佐伯は、沙耶が幼い頃から工房に立ってきた義肢装具士でもある。患者の歩き方を見る目は鋭いが、話し方はいつも穏やかだった。その日、彼は大きな金属製のケースを持っていた。「試作機をお持ちしました」蓋が開かれる。中に収められていたのは、共同開発中の電子制御義足だった。けれど、膝周辺には不自然な空白が残っている。本来ならそこへ組み込まれるはずのセンサーと小型モーターがない。ほんの二つの部品が欠けているだけなのに、機体全体が動きを奪われたように見えた。沙耶はしばらく無言で見つめた。「代替部品は?」「国内三社へ問い合わせています。ただ、黒崎製と同等の精度となると、すぐには難しいですね」佐伯が膝部分へ手を添える。「寸法が合えばいいという話でもありません。反応速度も違えば、出力特性も違う。別の部品を使うなら、制御側もかなり見直す必要があります」高瀬には、長年培ってきた調整技術がある。患者の身体を見て、わずかな痛みや違和感を拾い、義足をその人の生活へ馴染ませていく技術だ。それでも、目の前の試作機は止まっている。黒崎から届く二つの部品がないという、それだけの理由で。「性能を落とせば、評価試験に間に合わせることはできます」佐伯が言った。「ですが、坂道や段差での反応は鈍くなるでしょう」「それでは駄目です」沙耶はすぐに答えた。評価試
入院から四日後、沙耶はようやく退院を許された。出血は止まり、腹部の痛みもほとんどない。それでも医師からは、しばらく無理をしないこと、少しでも出血や強い痛みがあればすぐ受診することを何度も念押しされた。病院の玄関前には、大橋が車を回していた。宗一郎は沙耶の歩幅に合わせ、ゆっくり隣を歩く。「急ぐな」「大丈夫です」「大丈夫だと言う人間ほど信用ならん」叱るような口調なのに、宗一郎の手は沙耶の腕を支えたままだった。沙耶は小さく笑った。四日前まで、自分は黒崎邸にいた。離婚届へ署名し、階段の件で疑われ、家を出たその日のうちに病院へ運ばれた。あまりにも多くのことが起きて、わずか数日前の出来事とは思えなかった。車へ乗り込む。走り出してしばらくしてから、沙耶は窓の外へ向けていた顔を宗一郎へ戻した。「お祖父様」「何だ」「美玲さんには……子供を失ったと伝えました」宗一郎の表情が変わった。「何?」「電話で、妊娠しているのかと聞かれたんです」沙耶は膝の上で両手を重ねた。「最初は、言うつもりなんてありませんでした。でも……妊娠していると伝えてしまって」あのときの沈黙が蘇る。怜司の子供だと分かった瞬間、美玲の息遣いが変わった。そして沙耶は怖くなった。「それで、流産したと?」「はい」「なぜそんな嘘をついた」責めるというより、理由を確かめる声だった。沙耶はしばらく答えられなかった。「……怖かったんです」階段で見た美玲の姿が脳裏に浮かぶ。怜司が現れた瞬間に変わった表情。自分から身体を倒し、落ちたあとで沙耶に押されたと嘘をついた。自分の身体を傷つけてまで、怜司に選ばれようとした女。「生きていると知られたら、今度はこの子が邪魔だと思われるかもしれないって」宗一郎の眉間に深い皺が寄る。「美玲さんは、流産したと聞いて……安心したように聞こえました」沙耶は腹部へそっと手を添えた。「口では残念だと言っていました。でも、その前まで張りつめていた声が、急に緩んだんです」あの吐息を忘れられない。悲しんだ人のものには聞こえなかった。むしろ、恐れていたものが消えたことに安堵したような。「だから、この子が生きていると知られてはいけないと思いました」宗一郎はしばらく黙っていた。車内には、雨上がりの道路を走るタイヤの音だけが続いた。やが
宗一郎が病室へ戻ってきたのは、日が暮れてからだった。いつもきちんと整えられている白髪が、わずかに乱れている。上着の肩には、乾ききっていない雨の跡まで残っていた。会社へ戻り、取引先や関係者への対応を済ませ、その足で病院へ来たのだろう。「お祖父様」沙耶が起き上がろうとすると、宗一郎は手で制した。「そのままでいなさい」ベッド脇の椅子へ腰を下ろし、まず沙耶の顔を見る。「身体はどうだ」「少し痛みますが、出血は止まっています」「医者からも聞いた。今は、自分と子供のことを第一に考えろ」そう言われても、会社のことを頭から追い出すことはできなかった。「部品は、どうなりましたか」宗一郎の眉間に深い皺が寄った。「黒崎側は、安全性の確認が終わるまで供給を再開しない方針だ」「問題になっている資料は?」「こちらでも洗い直している。今のところ、黒崎が指摘しているような不備は確認できていない」沙耶は唇を結んだ。「怜司さんとは話せましたか」「まだだ」宗一郎の声に苛立ちが滲む。「社長室へ何度も連絡した。だが、担当役員が対応すると繰り返すばかりで、怜司君本人にはつながらん」沙耶は眉を寄せた。「お祖父様から直接話したいということは、伝わっているのでしょうか」「それすら確かめようがない」大橋の電話にも、怜司から折り返しはなかった。美玲が伝えなかったのか。怜司自身が、電話のことを知ったうえで応じなかったのか。会社からの連絡まで本人へ届いていないのなら、なおさら何が起きているのか分からない。けれど、部品供給の停止そのものは、黒崎本社の承認を経た正式な措置だ。怜司がどんな報告を受け、何を根拠に認めたのか。沙耶が知りたいのは、そこだった。「大学病院で予定していた評価試験は?」「予定どおりの開始は難しい。事情